鹿児島藩の外城で、同藩の直轄領。地頭所は、諏訪方村田の野首城跡に置かれ、郷士屋敷は地頭所を中心に並び麓が形成された。宝暦5年に地頭所が二之方村荷原(末吉中学校)に移ると、麓もその周辺に新たに形成され、地頭所前の仮屋馬場から堂之馬場・内門、さらに新地まで郷士屋敷が置かれた。 寛永13(1636)年の堺目人数・武具注文では、末吉衆は人数5,243人、鉄砲111挺、弓12張を備えていた。