福川本陣跡の福田家があるが、江戸時代をしのばせるのは1838(天保9)年建築の門だけである。
本陣は、はじめは藩主の領内巡視や参勤交代などの休憩所として使用されたが、しだいに参勤交代などで山陽道を利用する藩がふえたため、福川本陣も幕府の要人や西国大名などの宿泊や休憩の場所を提供する重要な宿としての役割を担った。福川市は1610(慶長15)年の検地帳には市屋敷120軒を数え、1741(寛保元)年には254軒にふえて周辺ではもっとも活況を呈した町であった。漁業なども盛んで、庄屋、町年寄、浦網代主などの要職も本陣福田家の一族が占めていた。
|