稲荷町は、町の北、小高い丘の麓に稲荷神社が鎮座し、同神社と赤間町を結ぶ道路に面して広がる両側町。天和2(1682)年刊の「好色一代男」に「下の関いなり町」とみえ、早くから広く知られた遊女町である。
北前船が日本海の荒波を多くの日数を費やして下関に着くため、船員はここにしばらく休息するのが慣行となっており、遊里の発達を促すことになった。しかし汽船が発達し北前船の往来が少なくなるとともに衰退し、遊郭は稲荷町から豊前田、新地へと移った。
裏町は、稲荷町の西側に開かれ、南北に細長い町。寛保2(1742)年に描かれた「御国廻御行程記」の絵図には「奥小路」とみえる。
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