明治22年、日本舎密会社(後の日産化学小野田工場)が創設され、硫酸会社と通称された。同26年セメント製造会社と呼ばれた。こうして、まずセメント会社付近をセメント町、その後硫酸会社付近を硫酸町と通称するようになった。またセメント会社の給料日の毎月7日と22日には、その門前近くに勘定市が立った。
また、セメント町は街並みが延びて、南から1〜4丁目と区画された。中川の用水路は60番土手下の遊水池に注いだ。この土手沖に小野田丸発着の桟橋が架かり、中川の用水路に沿って芸者の置屋や遊郭・検番などができ、60番通りと通称され色町として有名になった。
|