慶長5年の関ヶ原の戦後、玖珂郡の大部分と大島郡の一部を領することになった吉川氏は、当地を居所とし慶長年間に城下の建設を行った。錦川右岸の横山、その南の川西、同左岸の錦見、錦川河口左岸の今津によって構成された。
横山は、横山の山頂に要害(城)を築き、山麓に藩主居館である土居(要害と土居を合わせて岩国城と称する)などからなる上口、上級家臣の屋敷が配された下口、北端の千石原、南端の万屋谷にも各々武家地を設け、のちに慶安元年に川沿いに町人地の川原町が町割りされた。
江戸期に行政の中枢機関が置かれ、香川家長屋門、旧目加田家住宅、昌明館をはじめ武家屋敷が残る。
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