古代より瀬戸内海交通の要衝の地であったとされる。 近世には、家数580、うち152が本百姓でこのなかには問屋11、魚問屋2、商人37、廻船持ち19、茶屋1など兼業する家が多かった。 なかでも廻船業・漁業が盛んで、廻船数44艘、漁船71艘を数えた。これは良港を背景として栄えた。