慶安5(1652)年の城下町絵図によるとこの地は「弘法島」と記され、広い河口近くに浮かぶ小島にすぎない。後世この地を浮島と称した。新堀川を跨ぐ「浮島橋」として地名が残されている。 浮島橋から新掘川沿いに北に進むと川沿いに庭園と思われる景観が広がってくる。程なく「芳和荘」に至り、ここがかつての別世界であったと気づく。