藩政期は奥阿武宰判に属した。 萩城下から津和野に至る石州街道(野坂道筋)を小郡・山口を経て地福で野坂筋道に合流する石州街道が通る。生雲川右岸にある生雲市は慶長15年の検地帳には、町屋敷の159と記してあり、相当に栄えた所らしい。
生雲市の旧家大谷家は、代々生雲村の庄屋・大庄屋を勤めた家であるが、九代忠兵衛と10代久七は尊王の志が厚く、文久3(1863)年長州にて命した公卿中山忠光をかくまい、次いで七卿の一人沢宣嘉をもかくまった。また、久坂玄瑞も母が忠兵衛の妹であった関係で度々同家に赴いている。