はじめ上杉氏領。慶長6年最上氏領となり、元和8年からは庄内藩領。山浜通に属す。 当地は、庄内と越後を結ぶ山街道の要衝で、小名部組大庄屋佐藤氏(世襲)があり、その役所と番所がある。京都の医者橘南谿は、天明6年深雪の当地方を通行し、著書「東西遊記」に「積れる雪は行先いよいよ深く数丈に余れり・・・なだれの落て、命をうしなわんかと思えば、恐ろしくも息もつぎあへず」と記している。