地名は古代に念珠関があったことにちなむ。 村名は「日本外史」に源義経が当地を通過のおり弁天島の勝景を「念珠を連ねるが如し」と述べたと見えることに由来する。 幕末の「弐部詳記」によれば家数215軒、世襲の鼠ヶ関組大庄屋佐藤氏の役場がある。当村には庄内・越後間の浜街道が走り宿地も設置されている。 昔からの観光地で、古い街並みがあるかと想像していたが、新しく建て替えられていて、古い街並みは見受けられなかった。