当町は、江戸時代中期以降、地主制の発達が最も著しい地域の一つである。 中でも柏倉九左衛門家は、江戸時代中期、山形城主堀田氏(10万石)の下で、大庄屋(蔵増組のと岡組、要害組)を勤めた旧家である。 商品生産の発展にのり、江戸中・後期を通じて、土地集積を重ね、明治6年小作米は、2,408俵で、同村柏倉一族の総本家に当たる。敷地1万3,350u、建物1,190uで長屋門を有し萱葺屋根の大規模な住宅、重厚な蔵座敷、見事な庭園を見せている。