下長井地区を北流し、山形盆地に入る最上川は、白鷹町菖蒲地区の黒滝の岩床に堰き止められて、船を通すことができなかった。 元禄7(1694)年、京都の豪商西村久左衛門が私費をもって、これを開削し通船路を開いてから、当時幕府領であった屋代郷(現高畠町)の米、および米沢藩の城米や青そなどを酒田回りで京や大坂や江戸へ送ることができるようになり、物資の輸送に大きな変革をもたらした。やがて、宮、小出両村には藩の城米蔵(御陣屋)、青と蔵、木ノ実蔵、製?場、籾蔵も設けられるようになった。城米蔵には、専用の河岸があり、やや下流に民間の河岸が開設された。これを宮船場と呼び上流の終点糠野目河岸(現高畠町)と左沢河岸(現大江町)との中間の河岸として栄えた。