大川沿いの平地での稲作が中心であるが、川西の黒牛(米沢牛)の産地でもある。江戸期に米沢藩の原方郷士が置かれた所としても著名である。 会津120万石から米沢30万石に減封された上杉氏は「六千士族」を養うために、下級武士を原方衆として原野地に入れて半農半士的な生活をさせ、また各地で「諸士開き」など新田開発を奨励した。原方衆は、米沢城郊外が多いが玉庭村にも200人ほどが入っている。