農耕生産に有利な自然条件と最上川舟運による商品の流通、寒河江川以北と最上川の東側をも商圏に入れる有利さが、近世谷地の繁栄を与えた。 全国に有名な最上紅花は、村山地方で生産されたもので、河北地区は栽培適地で最上紅花の中心地であった。江戸中・後期には、「最上千駄」といわれる最上地方の総生産量のうち4分の1から3分の1を産した。生産者から直接集荷したり、相場を立てたりするものが元文3(1738)年には、「谷地花買仲間」として、25人あり、これから集荷する荷主問屋は、槇原左衛門など10名など、山形に次ぐ問屋数を数える。 村山地方では、山形に次ぐ商業地として栄えた。近世谷地は、俗に「谷地千軒」といわれ、慶應2(1866)年の大火で405戸を焼失した時の谷地総戸数は964戸であった。