江戸期は加賀藩領。 元禄期には人家が増加し、南町は南上・南中・南下の3町、北町は湊町・本川町・中町・北新町の4町に分かれ、以上7町を総称して本町と称した。 これに対して、その後編入・町立てされた新しい町を散町(ちりちょう)と呼び区別、権利・財産上大きな差別があった。散町は南町に御座町(南新町ともいう)・川原町・仕切町・上伊勢町・下伊勢町・高町・地蔵新町の7町、北町には北町・今町の2町があった。本町・散町を合わせて南十町・北六町と称した。
洪水の被害は少なかったが、大火が頻発。元禄2年5月に439軒、天保元年3月に250軒、同2年2月に672軒、同9年4月に91軒、同15年3月に286軒、安政4年3月に100軒、明治14年7月に200軒、同15年5月に1100軒を焼失した。中でも明治15年の大火は氷見町の過半を焼失した。