街並みめぐり
                                                                          

街並みの名称   千住 地図
 所在地  足立区
 訪問日  平成23年11月23日


 文禄3年(1594)伊奈忠次が奉行となって荒川に千住大橋が架橋され、千住村の中の新道もでき、その街道に沿って現在の千住1〜2丁目辺から町並みができ始めた。
 慶長2年(1597)千住村は人馬継立村に指定され、同9年には千住および竹塚に一里塚「が造られたといい、元禄10年(1697)千住より水戸に至る水戸街道が道中奉行の管下になっている。寛永2年(1625)日光東照宮の造営に伴い、千住宿は日光街道(宇都宮宿までは奥州街道と重複)の初宿にも指定され、江戸四宿の一つになった。

 その頃の千住宿は、現在の足立市役所前の荒川堤(熊ケ谷堤)以北に千住1〜5丁目の五か町があり、のちに本宿とも呼ばれた。その後、万治元年(1658)荒川堤外の掃部宿・川原町・橋戸町、さらに同3年荒川堤南岸の豊島郡小塚原町・中村町(いずれも荒川区)を加宿とし、これらを総称して千住宿といった。
 宿内には、3丁目に本陣と脇本陣が1軒ずつあり、天保15年(1844)には、旅籠屋55軒・家数2,370軒・人口9,556人を数えた。

 また、小塚原の刑場に近いため、通称「骨の遊郭」といわれた千住宿の遊郭は、江戸後期現在の南千住や千住1丁目から4丁目まで全部で31軒あり、1軒につき2人の飯盛女を置くことが許可されていた。
 なお、旧日光街道は5丁目で水戸街道と下妻街道を分岐し、この分岐点の東側には江戸期以来の整骨医院「千住の名倉」がある。


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横山家住宅 


 
 千住宿の中心地の宿場町通り



   
 仲町の入口 千住宿の案内板 
 
 懐かしい衣料品店 千住名物
   
  江戸期以来の整骨医院「千住の名倉」 
   
 飲食街  


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