「山陰の大坂」といわれる商都米子が近世城下町として整備されたのは、慶長6(1601)年に入封した中村忠一の代といわれる。
港に近い灘町、立町や内町には、鹿島家、後藤家をはじめとする米問屋、廻船問屋などの豪商の屋敷も構えられ繁栄した。灘町、立町、岩倉町の外濠(加茂川)沿いには、商家の古い土蔵や離れ座敷が建ち並び静かな水面に影を落とし情緒ある景観を作り出している。
江戸期の商業の中心は東倉吉町とそれに続く町であったが、明治に入ると米子港全盛時代を迎え、港に近い灘町、立町が中心街となり出入りする船を相手に旅館、飲食店、商店が軒を連ね、明治26年には灘町に米綿取引所ができ魚市場もにぎわった。
山陰本線開通後は、繁栄の中心は駅に近い法勝寺町に移った。
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