藩政期の当町には、上方往来の智頭宿・駒帰、作州(津山)往来の野原に宿駅が置かれていた。寛政7(1795)年の智頭宿には22匹、駒帰には9匹、野原には4匹の駅馬が置かれていた。なかでも智頭宿は、戸数約200軒、御制札場、茶屋本陣などが置かれた。茶屋本陣は、「上の御茶屋(御本陣)」と「下の御茶屋」があり、上の御茶屋には定番組士、下の茶屋には御徒目付が在番した。 智頭林業の明確な起源ははっきりしないが、その歴史は古い。鳥取城下の大火災などにより木材需要が増大し、人口造林の政策が推し進められるようになった。特に天保年間(1830〜44)には採り木による11万6,000本の杉苗の植林が行われるなど、藩政期に智頭林業の基礎がつくられていった。
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