江戸期は鳥取藩領。日野往来が通る宿場町。すでに寛永14年領内25か所の宿駅のうちに当宿の名が見え、以来幕末まで宿駅の機能を果たしました。
また制札場でもあり、安政3年には宿送継場に指定され、慶応元年には番所も設置されるなど、交通の要地として重要視された。備中・備前・備後国からの大山詣りの基点となり、また美作国大庭郡と米子を結ぶ物資往来の要路でもあった。安政年間頃、米子から美作への物資は木綿・海産物、美作からは煙草、椀などの木地物であった。市が7月7日・12日、12月22日・24日の年4回開かれ、在町としてもにぎわった。また、享保9年には牛市開設の願いを出し、年に2度の開催を許可された。
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