江戸期までは大塚とも書く。地名の由来は集落西南の台地にある王ノ塚にちなむといわれる。明治3年逢束村と改めた。宿駅や御蔵が置かれ、地内中屋敷にあった。享保17年宿駅は移ったが藩倉は残り、明治5年まで続く。制札場が置かれ、安政5年郡役所が設置された。また、伯耆街道の宿場でもあり、寛永14年領内宿駅の一覧にすでに名がみえる。