古くは葛生村と称したが、寛文元年上野館林藩領になるに伴い葛生町と改められた。地内は南から北へ上町・中町・下町・新町に分かれていた。当地では江戸初期から石灰生産が始められ、江戸城の修築などに利用されたと伝えられるが、天保年間から需要が増大して、従来の壺甕から谷焼甕に変えて、関東一円に売り出した。
当地を主とする野州石灰は、江戸における八王子石灰の勢力を圧倒し、明治維新後さらに発展した。石灰の輸送は当地から馬背で越名村・馬門村の河岸まで運び、高瀬舟に積んで渡良瀬川を下り、江戸へ運んでいた。