中国山地の蹈鞴(たたら)で栄えた街並みや鉄山師 



 名称 所在地  地図 
西城  庄原市西城町


 
 西城の地は、古くは奴可郡とよばれ、タタラ製鉄が盛んに行われてきた。芸藩通誌によれば「当郡第一の産業、諸民これによりて生活するもの多し」と記されている。

 奴可郡は広島藩の代表的鉄産地であった。安永9年(1780)には西城川水系に砂鉄採取場(鉄穴)が30口(油木10・三坂7・高尾5・平子5・大屋・中野1)あった。江戸期に石高増加の著しいのは坂村・油木村・平子村などで、大量の土砂を放出する鉄穴流しが新田開発に利用されたことを示している。砂鉄から鉄塊をつくる製鉄炉は奴可郡内に民営14か所、藩営2か所があったという。

 西城は鉄の集散地として栄え、寛文10年入江村から分出した西城町には、町屋敷が公認され、庄屋とは別に町年寄が置かれた。浅野氏入部以来、代官所が置かれて政治上の要地でもあったが、奴可郡の産鉄を管理する西城町御鉄会所が置かれ、鉄山業の中心地ともなった。御鉄会所は元文5年(1740)閉鎖されたが、「国郡志書出納」によれば、文政年間(181830)に戸数211、建物548、人口773、酒屋4、小鍛冶2、郡用所1、寺院2などがあった。備中新見路を中心に、西城路・東城路が通っていたため、宿駅も設けられ、伝馬10匹が置かれた。鉄山業の盛行に伴う駄送の発展から、文政7年(1824)以降、春秋5日ずつ牛馬市も立つようになった。(日本地名大辞典) 

 西城を訪れた時、土地の古老人から、「昔は芸子が40人以上いた。賑やかなもんじゃった。」と聞かされた。芸子が40人もいた街、現在とは想像もできない経済力のあった街なのだ。



   
   西城川沿いに形成された西城の街並み


   
各種店舗が軒を連ねている 


   
 水運を思わせる屋号


   
 市街地を横断する鉄道高架



   
呉服店 西城川を渡った所にも街並みは続いている


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