山陰における日本海水運のなかで、とりわけ重要な位置を占めていた。中世、奥出雲でとれた出雲鉄の積出港として重要視されていた。 近世、松江藩の管轄下に入ると山陰道が整備され、西廻り航路が開設されると、松江藩だけでなく支藩の母里藩広瀬の蔵米の積出もここから行われた。