正保国絵図によると渡河(飯梨川)後まもない地点から飯梨川左岸に沿って広瀬町方面へ向かう道が描かれている。さらに湊もあって各地と結ばれていたため、中心部は町場化して松江藩の制札場が置かれ、宝暦4(1754)年以前に荒島町と称される一画が生まれていた。物産は、荒島石、赤貝、赤砂、米などがあった。