中世には波根東村などとともに波根庄に含まれていた。波根西の内陸部には平地の水田地帯が広がっているが、波根湖があった。波根湖の干拓は、徳治元(1306)年有馬家茂が掛戸の切割を開いて排水し、湖岸に水田を造成したと伝えるが、江戸時代に入ると明和年間(1764〜72)大森代官河崎平右衛門定孝による見立新田の造成、民間の手による請新田の造成が進められた。
波根港は、商港として栄えたが、現在は漁港である。沿岸漁業のほか、九州五島列島を根拠地とする出漁船団も多い。
国道を走っていると「波根旅館街」の看板があり、何軒も旅館が現れ、湊町の風情が感じられる街並みが現れる。
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