東西に通る山陰道沿いに町並みが形成され、町の西端から南へ出雲街道が分岐する。 街道の結足点という立地条件から宿駅として栄え、宍道湖を利用した舟運の要衝でもあった。町の長さは200間、街道幅は4間であった。小豆沢家、木幡家、葉山家が本陣宿を勤めた。 木幡家文書によると、明和8(1771)年には、酒屋3軒、室座3軒、油座1軒、小鍛冶2軒、宿屋1軒、大工上中下3人、桶屋2人、綿打6人、石切1人、漁師3人となっている。