天然の良港として古くから知られていたが、西廻航路が寛文12年に開かれることによって船が風待ちのために入港する湊になり、賑わうようになった。
江戸時代中頃から明治末までの船宿、船問屋の数は32軒から36軒を数えている。廻船業を営む船問屋は初めはなかったようだが、寛政の頃には100石積の船をもち海運業に取組む者も現れた。
寛政期から明治末年までには、船持の家が28軒、船の数も34〜35艘余りあった。運んだ品は、江戸末期の記録によると砂鉄、煙草、昆布、銅、塗椀、干鰯、生?(ろう)、瓦、粒綿、叺などがあった。遠くは越後、津軽などへも運んだが、美保関、伯耆淀江、石見波子、長門赤間関、摂津大坂、摂津兵庫など近回りが多かったようである。
船宿は、船乗りの宿になったが、付船宿という遊女のいる宿も2、3軒あったという。湊近くの番所と制札所が1か所ずつ設置されていた。
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