中世以来、商家などが集中して町場を形成していた。近世の松江藩治下においても在町として掌握され、目代、町年寄などが置かれていた。かつては、宍道湖に面していた。
江戸時代には、木綿の生産が盛んになり、平田木綿と呼ばれていた。その名声が大坂市場まで聞こえるようになったのは、豪商三井の京本店が、当地に進出してきてからであった。三井の雲州木綿買高は幕末がピークであったと思われる。
近世になると木綿の集積地として栄えたが山陰本線の開通とともに繁栄の中心は今市に移っていった。
町屋の構えとしては、2階妻入りが多く、格子窓、白壁の家が多く残っている。
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