江戸期一貫して幕府領だった。 特に幕府は中山道の間道である秩父往還の最深部に位置する栃本関所を重視し、慶長19年(1614)には旧武田家の落居老、大村与一郎忠昌を関守に任じている。関の手薄さを強化すべく寛永20年(1643)には麻生の名主宅を加番所麻生関として通行人を取締まらせている。この頃、三峰・身延参詣の往来が繁くなるなど、間道としての役割が大きくなったためである。