寺内町富田は在郷町としても発展した。 京と西宮を結ぶ西国街道は、東海道と中国路を結ぶ近道として大名行列をはじめ旅客や物資輸送に利用され高槻城下へは八丁松原の連絡路がつくられた。
富田は、信長、秀吉の頃には、富田東岡宿として楽市楽座と公事免許が保証され、寺内町、宿場、市町の機能を合わせもつ町として発展した。特に酒造業が発展して大量の酒造米を消費したため、当地に米相場が立てられ、畿内の米相場決定に一役を担った。