元和年間難波村の助右衛門らが当地に住して漁業を営んだことから、当地の開発が始まる。
当地は、難波島で木津川から分岐する三軒家川に面していたことから、廻船業の発達に伴い難波島とともに殷賑の地となり町場化していった。
17世紀中頃までは多数の湯女を置いていたが、公許遊所を新町に限定した幕府により明暦3年その廃止を命ぜられた。