この地が、保元2(1157)年から応保元(1161)年にかけて、源氏の一族である駒井左衛門(兼綱)はじめ8名の者によって開発され粉浜村と称するようになった。 粉浜の名は、万葉集巻六に「住吉の粉浜のしじみ開けも見ず隠りてのみや恋渡りなむ」とみえる。 享徳2(1453)年の全村火災ののちに、中在家、今在家の二ヵ村に分かれたという。