享保15(1730)年」に幕府の許可を得た加賀屋甚兵衛の手によって延享2(1745)年から開発が始められ、開発主の屋号をとって加賀屋新田と名付けられ住吉郡に属した。 甚兵衛は、河内国石川郡喜志村(現富田林市)の出身で、大坂淡路町2丁目で両替商を営んだ人、享保13年には北島新田の開発なども手がけている。宝暦4年加賀屋新田の南部地区に新田会所を建て、以後はここに定住した。 この会所は、広大な築山林泉式庭園や「鳳鳴亭」と名付けられた数寄屋風の建物など近世の会所建築の貴重な遺構となっている。 甚兵衛は、新田開発の功により名字帯刀を許され桜井氏を称した。