天満にあった塩干魚商は、元和8年(1622)、阿波座堀川の北岸を開発してできた葭島新地に移転、町名も新靭町・新天満町・海部堀町となり、総称して靭三町とよばれるようになった。 新しい塩魚・干魚・鰹節・干鰯の市場は、寛永元年(1624)に海部堀川が開削され永代浜ができると、水運・荷揚げの利便性が高まって大いに発展した。 特に、干鰯は日本最大の集散地になる。干鰯は脂をしぼった鰯を干したもので、乾燥肥料として収穫増大に貢献、江戸時代の農業を支えた。干鰯の仲買商人も増え、居住地は靭三町はもちろん、周辺の油掛町・信濃町・海部町・敷屋町・京町堀にまで広がり、その一帯がまとめて「靭」と通称されるようにもなった。(大阪古地図むかし案内)