高梁川と支流小阪部川の合流点付近に位置し、水害を受けることが多かった。そのため貞享年間に藩主水谷氏がたびたび堤防を築こうとしたが完成せず、ついに人柱を入れて完成させ、村民はその跡(現川合橋付近)に地蔵堂を建て堤防の守護神とした。交通は高瀬舟に頼っていたため、村々を結ぶ道路はなかった。 弘化年間水谷氏の布賀陣屋が布賀村内の川沿いにある黒鳥に下りて来たが、これは高瀬舟による谷方の交通の重要性が増していたことを示しており、同時に当村も市場集落として発展する基盤ができあがった。