総社宮の門前町及び松山街道の宿場町的性格を持つようになった。 寛延3(1750)年松山藩領の八田部村明細帳によると家数413軒で、酒・質屋4軒、質屋7軒、油屋5軒、問屋4軒、小見勢屋25軒など71軒の商工家が記録されている。これらの大半は現在の商店街に並んでいたと思われる。 一方、この道筋の南側の一部は旗本井出蒔田氏の領地で井出市場と呼ばれていた。 文化13(1816)年の井出村明細帳によるとこの井出市場には90軒があり、大半が商工家であったと考えられ、市場役人が置かれていた。