吉井川下流右岸に位置する。地名の由来は、1の日に開市されたことによる。西国街道沿いの宿間の村で、本陣・宿屋が置かれ、増水による川止めの際にはにぎわいを見せた。東堤防上に一里塚があり、対岸の福岡村へ一日市渡しがあった。
明治期に入り農村へと変貌したが、大正期の実情を「上道郡誌」には、「村勢漸次衰えさびれ果て、戸数僅かに20戸にすぎざる寒村に零落し」と述べている。 旧山陽道は、明治期に入り国道となったが、新たに昭和38年堤防沿いに新国道2号が開通した。