四国金毘羅さんとの2社参りがされたという。 「吉備温故秘録」には宝暦年中(1751〜64)より諸国からの参詣が増加して繁栄、山を開き宿屋が多くできたとある。 享和2(1802)年田之口村より参詣した菱屋平七「筑紫紀行」には、山道を登り本社手前に茶屋・宿屋5〜60軒が両側に立ち続く様子や、仁王門、鳥居、社殿の様子などが記されている。