児島郡都羅郷の一部の島嶼であったと推定される。近世初頭に玉島湊が開発されるまでは有数の湊であった。 文安2(1445)年の「兵庫北関入船納帳」によれば、塩飽、大豆、米、大麦、莚、材木、胡麻、皮クツ、カニ、海老などを積んだ当地からの船が兵庫北関へ入津しており、延べ46回は備前、備中では牛窓に次ぐ。