仲買町は、江戸期の問屋街であった。 西高梁川河口の右岸に発達し、高瀬舟による河川水運と瀬戸内水運の接点として栄えた。玉島新田の海に面した西側堤防上には問屋街が形成され、備中松山の外港として整備された。 寛文10(1670)年玉島新田の西に阿賀崎新田が完成、東南部の堤防上に屋敷割がなされ商人たちが誘致され、新町が形成された。以後、玉島新田からしだいに湊町の中心が同町に移っていく。諸国より商売船が多数入り諸商売人も集まり町屋ができていったという。