金毘羅往来筋にあたり参詣が盛んとなった化政期頃には、徳利酒、旅人の当用品、御法三一色の品を扱う茶屋や店舗を張っての居商いがみられ、その数43軒、ざるふり商人17人、鍛冶屋以下の諸職人36人がいた。 また、小倉織の生産も行われ、のち野崎浜などの開発を行った武左衛門は、文化6(1809)年から文政8(1825)年頃まで小倉足袋業のマニュファクチュア経営を行っている。