街並みめぐり
                                                                          

街並みの名称   アイビースクエア 地図
 所在地  倉敷市
 訪問日  平成20年9月22日 平成25年10月12日


 
 古来この附近一帯は、「小野が城」または「城の内」と呼ばれ、戦国時代の砦の跡といわれる。慶長5年(1600)関が原の合戦で東軍が勝利を得てから、この地は徳川幕府の直領(天領)となった。

 慶長19年(1614)大阪冬の陣に備中国総代官小堀遠州は幕府の命を受け兵糧十数万石を倉敷湊から大坂に積み出すため、ここに屋敷を構えて陣屋とした。それ以来倉敷湊は急速な発展を遂げ、寛永19年(1642)に陣屋は倉敷代官所となり、初代幕府代官米倉平太夫が赴任してきた。それより明治維新にいたる二百余年、倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となった。

 天保5年(1834)には、代官所北側に倉敷教諭所が建てられ明倫館と名付けられた。それ以来、この地は文教の中心地となった。

 幕末になって尊皇佐幕で天下が物情騒然のとき慶応2年(1866)長州奇兵隊を脱走した一味約百名は、倉敷代官所及び浅尾藩(総社市)を襲撃し世にいう倉敷浅尾騒動を起こした。このため代官所は灰燼に帰し焼野が原となった。

明治の維新政府は、代官所跡に倉敷県庁を置いたが、明治4年倉敷県が廃止されてからは放置されたままになっていた。その後地元の先覚者達によって、明治2139日代官所跡に倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社)が創設され、紡績工場の汽笛が鳴りひびいた。以来倉敷紡績の隆盛は倉敷の発展に寄与するところとなった。

 倉敷紡績では、この地が古くより倉敷発祥の中心地であるのみならず、また会社発祥の由緒ある地であることにかんがみ記念保存地区に指定し、この地一帯が長く伝え残されることを希念している。 

この地のいわれ〜倉敷代官所跡・倉敷発祥の地〜 より


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アイビースクエア


   
   代官所内堀遺構
 
 児島虎次郎記念館
   
   倉紡記念館


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