備中国小田郡のうち、はじめ備後福山藩領、「元禄帳」では幕府領とあり、元禄11年福山藩主水野氏の減転に伴い幕府領となる。 延宝2年福山藩は、河川が運ぶ土砂によって干潟となっていた笠岡村・浜中村・絵師村の地先を干拓、当初は富岡新田村と称され、同5年には鎮守として七面神社も建立された。当新田の成立によって寛永古図で海上の島として描かれる横島村は笠岡村と陸続きとなり、また今立川河口の土砂堆積も進み、西大島村や浜中村などの地先干拓を促した。