乙大日川流域、地名の由来については、大化4年磐舟柵に柵戸の民が移住して「きのと」と称したという伝承がある。
新義真言宗乙宝寺は、天平8年行基の開基といわれ、三重塔・弁天堂・金銅製華鬘(まん)玉幡など数多くの文化財があり、参詣人でにぎわった。天保年間には紺屋・室屋・酒造屋・大工がいた。
乙宝寺は、真言宗智山派、山号は如意山、本尊は胎蔵界大日如来。近郷の人からは、「きのとの大日様」と呼ばれている。寺伝によれば、天平8年に婆羅門僧と行基によって開かれたという。婆羅門僧が釈迦の左眼の舎利を請来安置したという。
中条秀叟記録によれば、応永31年黒川基実の館が攻め落とされた時、「乙宝寺舎利」が伊達氏の軍勢により奪い取られ、秀叟はこの重宝を20貫で買いもどして「乙寺」へ寄進したという。
元和3年に村上忠勝より100石の寺領が宛行われ、以後は村上藩主により安堵されてきた。
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