鎧潟に南縁し、低湿水湛地の中にあったが、治水事業、農民の開田への努力が耕地の拡大をもたらした。 文政10年の村明細帳によれば、家数260・人数990、農作業用船114、大村であるが水との闘いの歴史であった。また、在郷市もあり、天保年間には市場継続願いが出された。