歌川河口部に位置し、子不知海岸線がある。地名の由来は聖徳太子が愛馬に乗り跡見市兵衛とともに駒返しから都へ返し、歌川を渡り大岩に歌を彫りつけたことによるとの口碑がある。馬子の跡見市兵衛は都へ帰れずここにとどまり、歌村の元祖となったが、その子孫は親鸞から雲晴寺の号をもらい水茎の姓にかえたという。 海岸の小村だが、北陸道の宿駅で、庄屋七郎右衛門が本陣・問屋を兼ねた。
現在は、北陸自動車道が通り、親不知ICが設置され、交通の便はとても良い。集落は、民宿の看板が多い。