江戸期は、坂手村、明治になってからは阪手村と書いた。はじめ御番衆領、元和元年郡山藩領、延宝7年幕府領、同8年甲斐甲府藩領、宝永元年からは再び幕府領。坂手は坂戸で低地を意味するという。環濠集落の遺構が残るという。
北阪手の構造をみると、現在、集落の南・東・北側に濠が残っている。東側は暗渠となっており、南側の濠は幅約2m、深さ約2.8mあり、内側には「うけづつみ」と称する高さ約1mの土塁があり、その上部は鬱蒼とした竹藪になっている。この「うけづつみ」の3か所は、集落内への通路として開かれているが、そこには、筋の入った石柱があって、増水時には板を落として堰とし、集落内へ水が入らぬように工夫がされている。