江戸期は、奈良町の1町。 「大和名所絵図」によると虎蔵・竹蔵の2人が、太夫万戸という者と語らい、「寛永六年に南都において傾城郭を訴詔し遊里を創建す」という。明暦3年江戸の新吉原を開くにあたり、木辻の遊女を下し湯女としたことが、吉原江戸町喜久万楼主訴状に見え、当時すでに繁華な遊郭であったことがわかる。
明治12年貸座敷19軒、娼妓89人で、同13〜19年は貸座敷14〜23軒、娼妓112〜180人であった。