豆酘と内院の中間にある浦
北東に竜良(たてら)の霊峰、北西に木こく山がふさがり、浦の南に神山(こうやま)が突き出ており、全域が聖地とされていたらしい。禊の場で八丁角を卒土の内とよぶのに対して卒土の浜・潮場浜とも称した。
明治7(一八七四)年頃に周防大島の出漁師らが定住しはじめるが、当時なお浅藻は「天道地」「しげ地」「そとの浜」と称される聖地で漁師らは豆酘の人々の許しを得て厳原の問屋に依頼して浜の木を切り開き、納屋を建ててもらい住まいとしていたという。
現在の浅藻は、明治中期以降に市丸馬太郎、大谷謙作らが新しく開いたものという。
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