江戸期は、大村藩政下で鯨組の基地として繁栄した。大村郷村記によれば、牡蠣(嘉喜)浦は、湊口から浦奥まで3町40間、横1町40間、深さ7尋、横目役所が置かれ、庄屋、漁家130軒余が、軒端を連ね、諸方の商船が絶えることなしに来湊し、繁盛の地であるという。 牡蠣の浦は石炭島で、明治末年より本格的な採炭を開始し、炭鉱での雇用、蔬菜や魚介類の需要が急増するなど島民の暮しに大きな変化をもたらしたが、昭和43年閉山一転して過疎の町になった。 街並みは、明治通りと大正通りの2筋の道路によって成り立っており、それぞれの時代の繁栄を映し出している。